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 となりの芝生は青い、といいます。

これはキレイだと思った隣の芝生は実は遠くから見るからキレイであって、実際に足を踏み入れると我が家の芝のほうがキレイだということです。

また、この世には知らなかった方がよかったというものもあります。
自分に足りないものもや手に入れられないものでも、実際に手にすればそれは実は魅力がなかったり、自分には手に負えないものだったりということがあります。

できるなら知らなければよかった。何も知らなければよかった。
ほんのちょっと望みを持ってしまったために、大きく傷ついてしまった。
もうこれ以上は欲張らず、想い出だけを噛み締めて、じっと静かにして生きよう。
ひとりは心地よい。気軽だ。

さあ、両親や僕の子供の待つ我が家に帰ろう。


 最近思うのだが、普通のことを普通にやるって重要だなあ、と思う。
当たり前のことを淡々とこなす。

人間だからサボりたいとか、手を抜きたい、目立ちたいとか思う時もあるけど、普通にこなす。
そんな地味な存在になりたいし、僕にはそんなことしかできない。



コント作家の宮沢章夫さんの話。
宮沢さんはかつてミーハー度が高い女子のことをワーキャー度と高いと表現していた。

これはナンシー関さんが泥棒に入られそうになっても「ワー」「キャー」言えなかったことから宮沢さんがネイミングした造語で、ある日、川勝正幸さんと岡崎京子さんと宮沢章夫さんの3人が芝浦インクに行く途中で、女子はワーキャー度が高くないと結婚できないという話になった。そこで岡崎さんが「どうしよう、私は結婚出来ないわ」とつぶやいたそうだ。

そこであの川勝さんが低いゆったりとした声で、こう言った。
「大丈夫ですよ。岡崎さんはいつもワーキャー言っているじゃないですか」

詳しくはこちらをどうぞ。スチャダラパーや町山智浩さんが出演しています。
一週間限定ですからお早めに!

2月3日(金)「川勝正幸ってどんな人?」

2月3日(金)「大根仁の言い逃げ番長」


川勝正幸さんのご冥福をお祈りします。



「あなたは占いに何を求めますか?」

テレビを見ても雑誌を読んでも日本人は占い好きだなあ、と思う。
血液型や星座、あるいは生年月日や名前の文字の画数、いろいろなものがある。

さて、この占いだが、僕は占いというのは基本的に当たる・当たらない、が問題ではなくて、その人に適切なアドバイスを与え、相手が納得するかどうかが大切だと思っている。

例えば肩で風を切るような上り調子の人には人の意見をよく聞いて周囲との摩擦に気をつけてとアドバイスする。反対に何をやってもうまく行かずもう人生を絶望している人には必ず我慢すれば夜明けが来るから、と励ます。この占い師とのやり取り、コミュニケーションが占いの醍醐味であり、占い師の力量ではないだろうか?大切なのは当たる・当たらないではなく、そのアドバイスに素直に耳を傾けるかどうか、だから結果だけで判断するのは邪道だと思う。

かなりの昔、青葉台にフラカッソというファミレスがあって、そこのコーヒーがイタリアンテイストでとても美味しかった。残念ながらフラカッソは青葉台から撤退してしまい、あの美味しいコーヒーは飲めなくなった。そこで某有名焙煎豆店に言って、そのフラカッソの味の豆を探そうとしたんだけど「そうやって抽象的に言われるのが一番困るのよねえ」とお店の人にけんもほろろに言われた記憶がある。お気に入りの味や音、あるいは香りを探すのって楽しいんだがとても残念だった。音楽ファンならばワンフレーズだけ記憶に残って、でも曲名がわからなくCDショップに行くと気になって探したくなる曲があるはずだ。

でもこの残念なコーヒー焙煎屋やさんの帰り道、実は僕は当時のフラカッソで飲んだJust!の味が見つからなくても別に構わなくて(もちろん見つかれば最高なのだが)、専門の店員さんとのコミュニケーション、一緒に探してくれる熱意が欲しかったのではないか、ということに気づいた。

家電や衣類を買いに行くと、時に店員の接客が煩わしいと感じることもあるが、人は単純に数字や★の数の評価ではなくて、生身の人間とのコミュニケーションが欲しいこともあるのだ。特に音楽、味覚、香り、色彩、文学、映画など芸術的なものは特に。

僕の理想は、気の置けない仲間と映画を見て、帰りにイタリアン映画でワインを飲みながらその映画の感想をあーでもない、こーでもない述べ合う、というシチュエーションなのだが、最近とんとご無沙汰でさみしい限りである。




 談志が亡くなった。

彼は生前、いつも「落語とは人間の業を肯定すること」と話していた。業。植木等が「わかっちゃいるけどやめられない」で大ヒットした時に、彼の父である住職がこの「わかっちゃいるけどやめられない」を人間の業の本質をついた言葉だと話していたそうだが、そう、業とはこの「わかっちゃいるけどやめられない」なのかもしれない。

また一方で談志は落語とは忠臣蔵を否定すること、とも話していた。忠臣蔵。すでに死んだ主君のために元の従業員たちが集まって主君の仇を晴らすためにテロ行為を行い、結局は全員死刑となるあの事件だ。「主君の仇なんてどうだっていいじゃねえか、もう死んだんだから。雪は寒いから温まって酒でも飲んだほうがいいよ。」これが落語の世界なのだ。考えてみたら落語の主人公は庶民であり、権力者や高貴な人は驚くほど少ない。

ミスタービーンを演じた俳優のローウェン・アトキンソンは実はオクスフォード出身のエリートなんだけど、彼は「欧州の笑いは残酷だ。権力者は徹底的にこき下ろされ、改心しても許さない。むしろ改心することさえ貪欲に笑いにする。それは欧州人が権力者に対して残酷で憎むべき存在だからだ。」これは欧州では庶民の迫害の歴史など長いからだろう。

一方、多くのアメリカの映画は実は、ハートフルだ。悪の権力者は改心し、最後はハッピーエンドになる。典型的なのはディズニー。

笑いこそ最も国民性が現れる大衆芸能かもしれない。



今日は近所のららぽーと横浜で2週間限定で上映されている「オペラ座の怪人25周年記念ロンドン公演」を観てきた。これはオペラ座の怪人初公演から25周年を記念し10月1日と2日、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで行われた記念公演のスクリーン上映で3時間弱の大作だ。日頃辛辣なYahoo!の映画評では絶賛されており、観ていない人は人生の半分を存している、とまで言われた作品だ。

『オペラ座の怪人』25周年記念公演 in ロンドン 公式サイト 11月5日(土)より TOHOシネマズ 六本木ヒルズにて急遽上映決定!

オペラ座に住むファントムと言われる怪人。彼女はクリスティーヌという女性に歌を教えていたのだが、やがて恋してしまう。しかしクリスティーヌはこの怪人の正体を知り、やがて別の男性のもとへ。嫉妬で怒り狂う怪人・・・。もう初めっから僕はこの怪人に感情移入しっぱなしだ。

演劇はもちろん生こそが命。それをフィルムで録画したものなど缶詰や冷凍食品じゃ、と初めは思っていたのだが、しかしもうこの舞台の迫力は一体なんだ!この音楽の魅力、役者の間のとり方が絶妙!
もう初めからうっとり、トリハダのエクスタシーの夢のような3時間だった。

映画前半はオペラ座の怪人の全部。後半はカーテンコールになるのだが、後半の歌の魅力は素晴らしい。ロックファンを含め、すべての音楽ファンに観て欲しい。

横浜のららぽーとでは2000円、六本木ヒルズでは3000円で上映されているが、文句なく安い。もうこれぞ極上の舞台芸術、音楽の力、まさに世界遺産である。

心に茨を持つ中年がオペラ座の怪人を堪能した。そんな振替休日の一日だった。
また行こうかな?とにかく素晴らしい作品。

音楽やお芝居を愛する人全てに強くお勧めしたい、そんな作品である。



やっとDVDで「ノルウェイの森」を観た。

思えば高校の時に村上の春樹の原作小説を読んだときは衝撃だった。
あれ以来、ずっと村上春樹作品は読んでいるのだが、この作品以上の衝撃はない。
無理はない。村上春樹作品の中でもこの「ノルウェイの森」は異色の作品で、氏の作品としては珍しい純愛作品なのだからだ。それなのに世間では村上春樹の新作が発表されるたびに、いつもこのノルウェイの森と比較したがる。やれやれ、まったく、なのだ。

この映画作品、小説が素晴らしかったし肉食系の菊池凛子の起用など正直映像には期待していなかったのだが、日本人以外の監督を起用したのがよかったのが素晴らしい出来だった。特にこの原作本のページから香り出す1969年の香りや当時の大学生のインテリや退廃ぶりや生活感がうまく再現されていた。また男性の性欲やそれに応えようとする女性のアンバランスな精神もうまく伝わっている。確かに小説未読の方や、セックスシーンの過剰さにうんざりした人も多いと思う。うん、でもそれでいいんだ。いい映画は我々を刺激する。

僕は高校の時にこの本を読んでおぼろげながらも喪失感をいうのを初めて知った。getではない、looseだ。人生にはどうしようもないということも初めて学んだ。男女の仲にはわからないこともあるんだということもわかった。男の性欲の身勝手さも自覚した。

その後僕は高校の時に大好きだった女性の先輩を失い、中学の友人を自殺で失った。さらに大人になってから両親を亡くし、いつしかひとりぼっちになった。気がついたらもう子供など望むこともできず、子供の写真の年賀状をもらいながら周りの子供たちはどんどん成長し、なんだ自分の人生は実は喪失だけの人生だったということに最近気がついた。

だから僕にはこの映画の持つどうしようもない喪失感がよくわかる。この直子も緑もよくわかる。はつみさんもレイコさんも、だ。最後のレイコさんが主人公に懇願し、寝るシーンは悲しくて仕方がなかった。みんなが傷ついている、キズキや直子だけじゃない、みんながどうしようもなく幸せになれない、そんなストーリーなのだ。

↓この映画評も秀逸です。ぜひ
超映画批評『ノルウェイの森』75点(100点満点中)

僕がこの世に生きていたことを忘れないで欲しい。
いつまでも覚えていてくれたら、と思う。

大好きだよ。だからがんばれ。


 たまたま先週みのもんたの朝ズバッ!を何回か見た。すごかったぞ。

まず、みのの贔屓(TBSの親会社と関係あるのだろう。来年の身売り後が楽しみだ)のベイスターズが負けると、ぷいと番組で取り上げない。女子アナが食い下がると「僕にはベイスターズ浮上の秘策があるんだ。でもタダではおしえなーい。」とスネる。さらに加護亜依自殺未遂報道など興味がない(あるいは失言の恐れのある)ネタはスルーしてしまう。スポーツと言えばデフォで大相撲であり、なでしこが優勝すれば澤さん!とわかりやすいネタしか取り上げない。ああ、この人、取材したことないな、底が浅いな、とまるわかりなのだ。

さらにパナソニックの備品調達部門がシンガポールに移転するニュースでは「そんなこと許されるの?」「でも日本にも税金支払うんでしょ?ね?ね?」と言って年金受給者世代代表としてコメンテーターを困らせたり、これがグローバル化だ、とコメンテーターが諭しても「わかんないなー」「なるほどね。でもどうしても僕にはわかりません」と、まるで聞き分けのない老人のような仕草をする。困ったちゃん。昭和の香りのするノスタルジアな妖怪。僕には今の十代、二十代の若者がみののこうした屈強な老人力をどう見ているのか知りたい。

そのくせ、公務員の歳費削減や政治家の失言にはネチネチと延々とこだわる。みのもんたはこの芸風で昭和から平成の30年生き延びてきたのだろう。このまさに彼のアイデンティティー。一芸入試なのだ。公務員は即悪。数字での説明を嫌い、無駄遣い廃止ですぐにでも世界が救われるという分かりやすさはあまりにも危険。それでもみのが人気があるのはこうしたわかりやすさが視聴者に好まれるのだろう。

こんなみのもんた、おそらく高いギャラをもらい、番組内でも権力があるのだろう。スタジオ内ではみのを気遣う空気がぴーんと伝わり、彼がすねるととたんにTBS関係者は慌てふためく。この光景は異常。なんだか朝からとても気持ちの悪いものを見てしまい、同じ宮使いのサラリーマンとして、TBS社員が気の毒になり、大変気分が悪くなる。でもこの気持ち悪さが魅力なのだろうか、番組は意外と続いている。

優れたジャーナリストは僕の尊敬する神保哲生氏や藤井誠二氏、あるいは荻上チキ氏やのようにみんなが知りたい情報だけでなく、知らなけれならないニュースを丁寧に報道したり、江川紹子さんのように大新聞が取り上げないけど、自分が重要だと思うニュースを掘り下げて取材する。しかしみのもんたは自分の理解できる範囲で、興味あるニュースしかコメントしない。コメンテータも自分の意見に反対だと機嫌が悪くなり、旗色が悪くなると冗談でごまかす。まあ、彼はタレントだから仕方が無いのかもしれないが、みのの背後にいる彼を支持する多くのシルバー世代を考えると日本の先行きが不安になる。

米国のオプラ・ウィンフリーはアメリカのお母さんと呼ばれているが、みのもんたは日本を代表する聞き分けがなくて屈強でやんちゃなおじいさんなのだ。



「ぐだぐだ書いていますが、結論は「甘えるな」だけでは問題は解決せず、意欲のない者のモチベーションをどうすればあげるのか、この難問の認識こそが大切というコラムです」

録画したNHK特集「生活保護」を見終わった。

大阪市のように12人に1人が受給者という急激な受給者の増大のための財政圧迫は大問題で、全国レベルでも戦後の混乱期の最悪の数字を超えようとしている。高齢化や求人難などおそらくこのままのままだと受給者数は増えることはあっても減ることはないであろう。国家の大問題である。

しかし石原都知事のように働けるものを怠け者だ、働かざる者食うべからず、受給の資格なし!と断罪するのは簡単ではあるが、それでは社会は変わらない。問題の本質はなんだろう?意欲のない弱者にいかに意欲をもたせるか、ではないだろうか?

特に心身ともに健康でなかったり、高齢者の場合は働くことは難しい。仕事が無い者はやがて意欲をなくし、初めは受給に躊躇していた者もやがて生活保護という制度に甘えてしまう。ある意味、これは自然な流れかもしれない。生活保護受給者に喫煙者が多かったり、アルコールに溺れたり、パチンコに大切なお金を散財するにもなにかに逃げたいのだろう。つらい現実から逃亡したいのだ。僕には彼らの気持ちがわかる。よくわかる。

ベストセラー「下流社会」では下流というのは年収や家柄や学歴ではない、意欲のない人たちのことだ、と結論づけられたが、結局弱者は意欲がなくなり、下流になり果てる。意欲のない者たちをどうすればモチベーションあげられるのだろうか?教育業界の末席にいる自分にも突きつけられた問題だ。

このドキュメンタリーで他に気づいたこと2つ。
生活保護受給者は医療費は無料だが、市町村が保証する生活保護者には病院は安心して大量に薬を投与する。この大量に投与される薬を裏組織が買い上げ、それが生活保護受給者がさらに働く気がなくなるということ。マスコミは「甘えるな」と受給者を責めるだけでなく、医療関係者、闇組織にもメスを入れて欲しい。

さらにそもそも生活保護とは憲法の国民は最低限健康で文化的な生活が送る権利がある、という考えから支給されているが、憲法9条のようにいかようにも解釈の余地がある。これも忘れないでいたい。

仕事のない若者は将来必ずお金のない老人になる。早いうちに政府は対策を取らないと大変なことになる。


<ネタバレと思いませんが、かなり突っ込んだ部分も書いています>

金曜日の夜、六本木ヒルズで単館上演されている(10月より全国公開)話題の映画「監督失格」を観に行ってきた。これはもう映画を観る、という体験より観客ひとりひとりが平野勝之監督とAV女優林由美香の生活に割り込み、最後は林由美香の葬式に参列したような気分になる凄まじい映画だった。映画の終了後、ヒルズの観客は全員黙りこみ、となりのOLは嗚咽し、若い男女はロビーの出口で抱きあってキスをしていた。映画ってなんだ?少なくともこれは莫大な予算のハリウッド映画や一大プロジェクトとしてテレビ局とタイアップするアニメ映画とは全然違う、これも映画だとすれば僕はいったい今まで、なんの映画を観てきたのだろうか?

この「監督失格」はAV監督の平野勝之が不倫関係でもあったAV女優林由美香との交際の日々と、林の急死の一部始終をカメラに収めたドキュメンタリー映画。前半は二人で東京から北海道の礼文島までの二人の自転車旅行がスクリーンに映しだされる。初めての自転車旅行で林由美香はふてくされ、ケンカをしたり、平野監督の妻に嫉妬したりするのだが、始終ラブラブなのだ。AV監督の作品だけどセックスシーンはなかったが、放尿や嘔吐物のシーンは映画に出てきた。しかしそこにも確実に愛を感じるのだ。愛であり人間としての信頼が伝わるのである。僕には平野監督の気持ちが痛いほどわかる。だから痛いのだ。心が痛いのだ。愛が痛いのだ。

きっと僕と同じ(それなりの人生経験を積んだ)男性ならわかってくれると思うけど、愛する女性と一緒になり、裸を見せ合い、お互いを愛撫し、セックスをして、強く抱きしめても、いや愛するからこそ、もっとこの女性と一緒になりたい、独占したい、すべてを受け入れたい、という欲望が湧く。愛すれば愛するほど。もうどうしようもない愛、ある時は狂気さえ感じる愛の痛みだ。これは結婚した夫婦の日常なんかよりも、もっと非日常的な抜き差しならない恋愛の時に感じる感情なのかもしれない。そいつをただの「ラブ」とか「愛している」なんて表現するにはあまりにも無理がある。いっそメチャメチャにしたい。狂ってしまいたい。愛による破壊、愛の臨界点と表現しようか。この「監督失格」を観て僕はこの性愛以上のどす黒いものの正体がなんとなくわかったような気がする。

やがて平野監督と林由美香は別れ、林には年下の彼氏が出来る。それでも由香里は平野を苦楽を共にした「元彼」だからそこ頼られるお友達として信頼し、時々相談し、愚痴をこぼす。それを柔軟に受け入れる平野監督、しかし実は平野監督はひとりもがき、映画も満足なものができなくなる。迷う、苦しい、痛いのだ。愛の強さが強ければ強いほど、苦しみも大きい。この時の平野監督の気持ちも僕は痛いぐらいわかる。

後半は林由美香の突然の死から始める。林由美香の急死現場に平野監督と由香里の母が立ち会うのだ、カメラを持って。生前北海道旅行の時の彼女の平野監督に向けられた「幸せだよ」は、だから自分に対しての存在理由の再確認に聞こえてしまう。この映画のもう一つのテーマは家族。それもチンケな家族愛とは違う、幸せになれない母と娘の心の奥から吐き出される愛だ。AV女優という職業だって(だからこそ)由香里の願いは悲しく切ない。急死現場の母親の取り乱すシーンには母親の愛がバシバシ伝わって僕はそこで鳥肌が立った。テレビや新聞で東日本大震災の死者15,645人と書かれても、実はそこにはひとりひとりの人生が15,645個分あるのである。

由香里の死後、平野監督は映画が撮れなくなる。どうしようもない大恋愛、身近で大切な人を失ったり、自分もダメになってなにもかもがイヤになったことがある人にはよくわかるだろう。両親や大好きだった先輩、親友を亡くした僕にもこの気持はよくわかる。そして平野監督はこの「監督失格」という映画を苦しみながらも完成させることによってやっと林由美香も成仏されたのではないだろうか?

素晴らしい芸術とは見た後に、必ず自分に何か感動を与えてくれる。音楽、美術、映画、小説。昨日までと違った何か、明日を生きぬくスパイスを与えてくれる。ドロドロとした性愛以上の愛の先には死があり、その死と向かいあえるかで再び愛が問われ悩み苦しむ。裸やセックス描写などAVを超えたドロドロの人生のAV映画。これを「人生」とか「生きる」なんて安っぽい言葉で言うのはこの映画に大して失礼だ。そして僕は正面向いてこの映画に向かい合い、自分自身に明日から問いかけてみたいとおもう。

六本木ヒルズに行くまで、きっと映画館では昔、林由美香にお世話になった往年のAV好きのオッサンが多いかな?と思ったら、予想以上に女性も多く、また客層も若かった。僕はこの映画を特に女性の方に観て欲しいと思う。でも僕には最後の矢野顕子の曲は不要に感じた。あのままブツっと終わってくれた方が救いようがなくてよかった。林由美香は死んだのだから。

最後に、この映画を見て平野監督のことをかっこ悪くてダサくて、ダメな人間だと思ったら、それがなによりものこのダメ男をかつて愛した林由美香への鎮魂歌(レクイエム)のような気がしてならない。

林由美香よ、安らかに眠れ。